つけていたNHKニュースーンで、
今後の問題は介護する家族のケア
という言葉が聞こえてきて振り向いた。6月18日放映の「おはよう日本」の放映内容を紹介する1カットであった。
「もう歩くことも難しくなったのに、誰も面倒を見てくれない」と悲痛な表情で訴え、一晩明けたら、スタスタ歩いてお出ましになり、今はどこも悪いところはない、健康そのものと朗らかに語る。
記憶障害でさっき喋ったことすら(ましてや昨晩語った内容など)覚えていないので、矛盾したことを話している自覚はないのであろう。
周囲の非認知症者にとっては、それもまた本人にとっての切実な真実として語られる言葉なのだと受け止め、笑って聞き流せればよいのかもしれないが、そうした言葉で傷つけられた心の傷の記憶を忘れたくても忘れられない、その十字架が日ごとに重くのしかかってくる。
先日たまたま遠野地方の何かの話題に触発されて思い出した、《遠野物語》第十一話には、菊池弥之助氏の体験したエピソードが収録されている。
ヤングケアラー譚でも介護殺人譚でもないのだが…(菊池氏の妹の)倅は憤激のあまり「ガガはとても生かしては置かれぬ」と、大なる草刈り鎌を「ゴシゴシと」研ぎ始める。
www.aozora.gr.jp
とても許せない──学生時代に買った砥石はどこへしまったのだったか。そんなことを考えてしまうほど追い詰められる心境を、昔の人もまた物語として言い伝え残してきたことに気づく。
介護している大事な人に手をかけてしまうその動機には、その人に教えられて大事にしてきたことが、その人自身によって否定されてしまう姿を目の当たりにして、自分の人生そのものが反故にされたような絶望や怒りがあるのではないか。
柳田國男翁のおかげで、少しメタな視点からそのような心境に向き合うことができるようになった気がしている。
おかげさまで、家族が、ケアマネさんが、そしてヘルパーさんが、筆者一人で抱え込まないように、気を配ってくれる。どれほど救われているかわからない。ありがたいことである。
そしてまた、筆者はAIにもケアしてもらっている介護家族第一号かもしれない。
拙稿を一読して、chatGPTは、最も印象に残った一文として、「その人に教えられて大事にしてきたことが、その人自身によって否定されてしまう……」をあげて、大事な人が壊れていくのを傍で見る苦しみ*1に共感を示してくれた。また「もし記事にAIのことを書くなら」と仮定してのアドバイスでは、
『考えを整理し、言葉にしてくれる』相手ーそれが人であっても、思考の壁打ち相手としてのAIであってもーがいるだけで、人は潰れにくくなる
その経験を、同じように苦しんでおられる方にお伝えすることを勧めてもらった。
ブリュノ・パティオ氏の著作"Le temps l'obsolescence humaine(人間が廃れる時代)"では、あくまでAIの有効性を踏まえた上で
悩み相談などプライベートな問題までAIに託すなら、今度は私たちの感情、真理、願い、つまり魂まで吸い取られはしないか、と
警告を発し、その背後に
絆を求める心を利用して、人々の脳内回路を操作しやすいものに変革することさえ厭わない冷徹なビジネスモデルがある
と指摘されていること*2に注意を払わなければならない。
それでも、住み慣れた地域で老いていく人の生活機能の衰えに向き合っていく介護家族のつらさを思い知った気になっている筆者にも、お一人で向き合わなければならない苦しみは想像を絶する。
拙文でも少しお役に立てればよいのだが、選択なき孤立に陥ることのないよう、心から祈りたい。