ドストエフスキーと天声人語子

 本日の朝日新聞朝刊天声人語では、のぞみの台車に亀裂が入った重大インシデントを取り上げ、異常を検知しながら走行を続ける判断をしてしまったチェック機構の一段階が「無責任であった」と批判している。
 しかし、のぞみは重大事故にいたらずに安全に停まった。百点満点の一段階のチェック機構で安全が守られたのではない。人間は間違うものだという前提で設計された幾重ものチェック機構が(満点ではないにせよ)組み合わさって機能したからこそ、最終的には大惨事を未然に防ぎ、生命を守ることができたのは明らかである。
 チェック機構の一つが満点でないところをあげつらうのは、天声人語子の理解不足の現れで、時に満点にならないこともあるものを組み合わせて満点に近づけるというのが安全確保の基本哲学である。こういう場合には、最終的に停める判断をした部署はほめられてよいと思う。「ゲタ代わり」の秒単位の定時運行への圧力は強いから、もし停車して異常点検して、何も出なかったりするとマスコミに批判されたり減給処分などのリスクもあるなかでの決断であったと考えられる。
 それぞれの立場で、それぞれの担当者が責任を果たしながら、全体としてそれが無責任に見える不条理さは、ドストエフスキーの小説以来のわれわれの社会システムの課題なのだろうか。
 スイスチーズとのバランスが悪いが、百点満点の一段階のチェック機構を某24時間ドラマになぞらえてジャックバウワーモデルと呼ぶことを提唱したい。

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