亡父のくくりこぶし


 父は器用な人であった。終戦後、乞われて今治の銀座の商店街のある店の壁にFruits Parlorと描いたことがあると聞いたことがある。これは30年位前くらいまでは残っていた。モダンな、Chanceryそのものと言ってよい書体だったと記憶する。残念ながら壁の塗り直しで消されてしまったのであろう、この間の今治大周遊では確認できなかった。筆者も頼んで表札を作ってもらった。筆者の名前を筆書きした上から器用に彫刻刀で彫って墨入れをしてくれた。
 筆者にはいずれの才能もないが、しかし500ポイントのサイズのChanseryで大判プリンタにプリントアウトしたり、3Dプリンタで表札をプリントアウトすることはできる(ようになる予定である)。Steve Jobsは講演の中で、若い頃ニセ学生でとったカリグラフィーこそが、Apple computerのマルチフォントシステムやビットマップディスプレイ採用のきっかけになったと言っていた。プレゼントしたMacintosh LC630に亡父が手を触れた形跡はほとんどないが、亡父とJobsとの間にカリグラフィーという補助線を一本引いてみると、その2点から等距離に筆者がいるのがよくわかる。
 終戦直後に父親を亡くしてからは、兄と協力して一斗缶で米を広島に運び、母親の佃煮屋の開業資金を稼いでいたというのであるが、これはいわゆるヤミ米であったのかもしれない。当時、一斗缶を縄で縛って持ち運んだものと思うが、縄のかけ方も実に手際の良いものであった。筆者が大学に進学するときに習った記憶があるが、そのかけ方とは違って覚えてしまったかもしれない。晩年、父は福岡への転居を念頭に置いて家の中の整理を進めていて、写真の筆者の遊学時代のノートや本の一包みも、実家に置いてあったのを父が紐がけしたものである。もうこのくくりこぶしが増えることはない。厳粛な気持ちで記録しておく。

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