初ちゃんのこと

 40年前のこと、オサカに遊学するにあたり、記憶では信州大の受験帰りに卓袱台の事務室で入学手続きをして、掲示板に貼り出されていた下宿屋さんの中で一番安い賄い付き下宿(月23,500円)の斡旋を受けた。
 下宿屋さんは、阪急電車の支線の終着駅からだらだらとした上り坂に沿う住宅地を抜けて、目の前に千里ニュータウンの眺望が開けるような場所にあった。近隣の農家にも声をかけて納屋を改造したりして40人からの飢えた貧乏学生に衣食住を提供してくれていた先代のおばあちゃんが一線から退いた後、賄いを取り仕切っておられたのが、そのご子息のお嫁さんの初ちゃんであった。
 手続きを終えてJR山陽本線を乗り継いで尾道から鉄道連絡船に乗って今治に戻った。引っ越しにあたり荷物を3つか4つのみかん箱に詰めたのを運送屋さんの営業所まで運んでくれた叔父もすでにこの世になし。それを母屋で受け取ったのを運ぶのについてきてくれて、途中の階段で転んでベソをかいていた末娘の敦ちゃんもすでに当時の初ちゃんよりも年長のはずである。
 ご飯は大きなガス釜で一度に炊いたのを各自好きなだけよそおい、壁の棚の網戸を開けておかずを取って、土間のテーブルで食べるのだった。風呂は2日に一度、夏場は下宿の裏の畑の脇で水道のホースでシャワーを浴びたり、しょうがないので駅前の公衆浴場にも行ったりした。当時のオサカも暑かったが、その暑さは今年去年ほどではなかったと思って気象庁の記録を見てみると、月の平均気温ではそれほど違いがないので、よくクーラーもなしに熱中症にならなかったものだとびっくりしている。
 6年間肝っ玉母さんとしてお世話になって、結婚式にはご夫婦で来ていただいて早三十年もご無沙汰してしまった。その間3人のお嬢さんが嫁いで、建物が火事にあって下宿業は廃業されたと聞いていた。Google streetviewでうろついてみても当時の面影はないと慨嘆してからでも9年が経過している。4年前には下宿でお世話になった元学生の同窓会があり、記念写真には白髪の媼が微笑んで写っていた。今年の年賀状には、足が不自由になり、さらに転倒して腕も骨折されたように書かれていた。
 大阪北部地震の後、気になりながらも安否確認の電話を一日伸ばしにしてきたことを後悔している。7月のはじめからの入院加療の効なく、8月7日にご逝去されたと、本日訃報に接す。ご冥福を祈る。

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