渡辺弘行作品の網羅と枚挙

 これで、渡辺弘行作品を《髪》1954年、《真珠》1967年、《裸婦》 1972年と年代順に拝見してきたのである。先のタフちゃんさんのブログへのようこさんのコメントを拝見するに、「25年ほど前に」ご逝去されたとあるが、生年についてはよくわからない。今年孫娘が50才になられたとあるから1世代30年として1900年前後であろうか。久米桂一郎・黒田清輝と東京美術学校の教え子たちの中に、大正15年(1925年)彫刻科卒とある渡辺弘行氏が同一人物なら、(旧学制はよくわからないが)1900年前後生まれと考えて妥当であろう。(後日記: オークションに渡辺氏の彫像が出品されていて、その紹介によると明治34年生まれ、すなわち1901年ということだ。)1987年頃90才を迎える前に亡くなられたと推測される。これまで拝見した3体の彫像は、いずれも生命感あふれる等身大の彫像であって、この制作年の期間は、彫刻家として油の乗った時期であったに違いないと思われるのだが、《髪》1954年を制作されたのは現在の筆者と同年配の頃となる(が、もう少し若い頃の作ではないだろうか?)。
 鋳肌の研磨は、かなり体力を必要とする作業であろうと、少しだけ類似の体験のある筆者は考えるのである。先に大分市で拝見した朝倉文夫《みどりのかげ》が、1925年に制作されたものであるのに、舌を巻いた筆者であったが、ちょうどその頃渡辺氏は新進気鋭の美術学校卒業生であったということだ。その仕上げのみで作風を考えるのは見当違いかもしれないが、《髪》は(もとは)朝倉文夫作品を思わせる鏡面仕上げに磨きぬかれているが、《真珠》はやや異なり、《裸婦》はくっつけていった粘土の粒が確認できそうな感じのテクスチャーになっているように感じられた。
 氏の他の作品でweb上でたどることができるのは、わずかに香川県立ミュージアムの髪(1954)、想(1969)、腰かけた女(1979)香川県立高松工芸高等学校裸婦像山陰合同銀行鳥取ギャラリーに裸婦像(制作年不明)である。大戦の時期に金属を供出したため、失われてしまった可能性もあるかと思うが、1925年から1954年までのおよそ四半世紀の氏の作品を見てみたいと思うのである。没後四半世紀たって、ご遺族でも所在をたどることが難しいようであるが、どちらかの高齢者施設に寄贈されたものがあるのだろうか。

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