五十にして天命を知る

 昔の五十歳とはもうターミナルフェーズで、天命を悟ったとしてももう手遅れであったのかも、などと思うのは論語読まずの論語知らずのたはごとである。
 ひょんなことからアンカープレゼンターさんのその後の闘病記を拝見して愕然。たった5 mlの出血が、このダンディーな学者さんすら自暴自棄に追い込みかけたのである。同じくダンディー多田先生も、脳梗塞で倒れられたと聞いた。懸命にリハビリに励むお二人の不屈の闘志には、心から敬意を表しご回復をお祈り申し上げたいと思う。しかし、たとえば天命が見つかってそれにこれからの人生を賭けるとして、ものになる前に倒れるリスクをどう評価するか。志半ばに倒れたとして、はたして筆者はがんばれるか?とも考えてしまうのである。やってみなければわからないのは人の世の常なれど、筆者も決定論でないと安心できないし、リスクもゼロでなくては気が済まない日本人のメンタリティーをもっていることはどうも間違いないようである。そのような意味でリスクは織り込みずみで「残りの15年の人生を…」と言い切ることのできる信念には、首の骨が折れそうな衝撃を感じる。
 孔子様(享年73歳)とて、五十の声を聞く頃には遠視になってなかなか書物をお読みになるのにも苦労されたのではあるまいか。それでなお、六十までは意地を張って人の言うことも聞かず、七十まではやりたい放題やって矩を越えていた迷惑ぢ○ぃだったらしい。などと思うのもまた、論語読まずの論語知らずのたはごとである。[健康]

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