科学研究論説の「失敗」に寛容でない風土ができつつある

 本日付の科学誌の今年の10大ブレークスルーの第1位は、チンパンジーをはじめとする真核生物のゲノム解析の進捗であり、第2位に探査機による太陽系探査(Planetary Blitz)があがっていて、Deep Impact, Cassini, SMART-1, Stardust, MessengerとともにHAYABUSAが登場する。HAYABUSAチームの方々に心からの敬意を表したい。
 さて、そのHAYABUSAに関する、元日経サイエンス編集長である日経新聞論説委員清水 正巳氏の研究の失敗に寛容な風土はできるか(12/21)に対して松浦晋也氏が反論され、コメント欄が一種の活況を呈している。
 清水氏の論説の要旨は、科学研究助成が成果重視になったこと、それによる弊害が見られること、たとえ原則をはずれても、研究費を注ぎ込んで育てなければならない領域があることであって、これは正論である。問題は、成果重視主義の弊害のうち『失敗をごまかす責任逃れ』の例として槍玉にあがったHAYABUSAについて、その批判のほとんどが誤謬にもとづいているというのが松浦氏の指摘である。
 科学は、先人の成果の上に自分の実験結果を積み上げて進歩していくものであるから、もし実験に失敗しても、その理由を解明して克服できたら、それは進歩であり、研究全体としては成功と判断されるべきである。このことは清水氏も認めていて、そのような「失敗が生きて業績につながった」例として、日本人のノーベルプライザーの例を挙げておられる。しかし、それは科学者なら誰でも大なり小なり毎日やっていることであって、「失敗から学ぶことのできない科学者が成功するはずがない」という真理の裏返しでしかない。
 ならば、研究における成功とか失敗とは何を意味するのか。というと、定義はきわめてあいまいである。本質的でない論文を量産することは、成功だろうか。予想通りの結論が出ない研究は失敗であろうか。否、それこそ常識を覆す真理の大発見であるはずだ。研究の成果を問うというのは、当初の目的の達成もさることながら、その成果のサイエンスに対する貢献の度合いを評価することである。清水氏の論説に欠けているのは、実はこの視点ではないかと思っている。
 科学に造詣の深い報道のプロとしての清水氏には、現場から一歩離れて、HAYABUSAの成果の科学的なインパクトを客観的にレビューする責任が課せられているはずだ。今やISASのホームページには、イトカワの科学観測の成果の一部が公表されている。氏はこれらをご覧になって、これだけでもかつて日経サイエンス誌に掲載されたVoyager 1号、2号の外惑星の探査の成果に匹敵する成功と評価なさらないのであろうか。素人の筆者の目には、たった一枚の写真からでも、太陽系の起源、惑星生成のメカニズム、隕石の起源などに関する理解が飛躍的に進歩すると期待できるし、うまくいかなかった計画についても、公表されている限りにおいてトラブルの原因は究明されており、今後の探査機設計や地上施設整備など、微惑星探査に活かされる、きわめて貴重な教訓が得られたと判断する。これは、探査計画の達成という視点から見れば失敗でも、その想定外のトラブルが発生する可能性を明らかにし、それらに対する対処法を確立するという視点から見れば成功であろう。筆者は、これらすべて、科学への限りない貢献をもたらす世界に誇れる成果であると確信するものであるから、清水氏の論説が「研究の成功に冷淡な風土」に根ざしている点に少なからず不満を覚える。
 筆者は、HAYABUSAがScience誌によって高い評価を受けたことをもって、ただちに成功だとは思わない。しかし、相対的に少額の予算で、失敗を恐れず今後の微小天体の探査のための重要な技術の評価実験を探査機5台分くらいまとめて意欲的にこなしてきたHAYABUSAに、清水氏が危惧するところの「失敗を恐れて挑戦的な課題を避ける傾向」など微塵も感じない。(マスメディアは伝えないが)松浦氏が伝えてくださる記者会見後の質疑応答での誠意あふれる回答を読んで、「失敗してもそれを率直に認めずに取り繕ったり」する態度を感じたことも一度もない。むしろ、このような意欲あふれるプロジェクトこそ、清水氏の言うところの「志の高い研究」であり、「研究費を惜しげもなく注ぎ込む」べき研究であると判断せざるを得ない。
 もし筆者が志の高い編集局長なら、即刻「研究の失敗に寛容な〜」を訂正させるとともに「研究の成功に冷淡な科学報道の風土はかえることができるか」とタイトルをつけた検証記事を作成するよう指示するであろう。[はやぶさリンク]

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