BSD亜種の繁栄の時

 思い立って、日本の古本屋さんと福岡の図書館横断検索でインタフェース誌の在庫を探す。しかし別冊付録「UNIXの世界」つきの1983年11月号にたずねあたることなし。萩谷昌巳氏の紹介文には、当時最新鋭のサンちゃん(今やレッドブックもののSunワークステーション)が登場したことを記憶しているが、当時のハードウェアの規格はすっかり役に立たなくなっているようである。
 ちなみに筆者が憧れのFM-11AD2を購入したのは、この5か月後、1984年4月にカビだらけの下宿から脱出した後のことである。さらに日本橋で憧れのFM-8を中古で購入、RS-232cでつないで一人チャットしながらデータ通信を研究し、OS-9/6809上のBasic09で測定器から取得したデータを解析するプログラムを書けるようになるのにさらに半年を要した。OS-9unixそのものではないが、Ratforで書かれたソフトウェアツールを構造化プログラミング言語Basic09にインプリメントしてコンパイルしたフィルタをパイプでつないで使うことができた。当時の商用unixのライセンス料は、とても個人で持てるシロモノではなかったから、unixの精神を学ぶのにはいい線いっていた。
 とはいえ、6809Eのクロック周波数は2 MHzであったことを知って、よくマルチウィンドウシステムが動いていたものだと驚くのである。メモリは128 kB標準装備で、後に秋葉原のラジオデパートの3階あたりのお店で128 kB増設ボードを10万円近いお値段で買ってAD2+化したように記憶する。いや、68000カードのささったAD2+を別途購入したのであったろうか。その後、日電のPC-9801を導入して、CPUのスピードアップと表示色数の増加をはかり、CRTディスプレイを多重露出して4096色でマンデルブロー集合を探検したり、Smalltalk/Vを導入したりするうちに、1987年の梅雨末期の蒸し暑い日に岡山市上中野のコスモス岡山でMac IIに出会ったのだった。インタフェース誌を購読しなくなったのは、ちょうどその頃に違いないが、public domain softwareの世界を垣間見させてくれた、この号の別冊付録も、筆者の人生航路を変えた、忘れがたい一冊と言える。
 ところで、OSとしてのunixは、生物界のウイルスにたとえるなら、突然変異を繰り返して亜種を産み出し、時代とともに進化するハードウェアを次々と感染の標的として生き残って、ついには携帯情報端末とサーバーを宿主としている…という次第である。

本ブログではamazon associate広告を利用しています。